怪談

夏になると、日本では「納涼」と称して集まっては肝試しや怪談をするほかの国には見られない風習があります。湿度が高めの日本の夏だからなのでしょうか? それとも、日本人の心の奥底には怪談などの「怖いもの」に触れたがる習性があるのでしょうか?

怪談とは

怪談とはその名の通り「怪の談話を語る」ことで、幽霊や妖怪などの非現実的な存在によって引き起こされた事柄や、日常の裏側に潜む怖い話を語るものです。仲間が寄り合って語られる怪談の中には、「友達の友達の体験」として都市伝説が混じっていることもあります。

怪談を語るスタイルとは

怪談を語るスタイルとして有名なのが「百物語」です。仲間同士で部屋に集まって百本のロウソクを灯し、一話怪談を語るごとにロウソクを消していき、百話目が語られると同時にロウソクが消されたとき怪異が起こる、というものです。しかし、遊びで怪異を呼ぶことは危険なことであるので、九十九話目で話を止めるのが昔のやり方の一つだったようです。また、百物語を敢行している際に百話語る前から何がしかの怪異が起きていたこともあると伝えられ、怪談が「怪を呼ぶ力」を持っているのは確かなようです。

なぜ怪談を語るのか

では、なぜ人は怪を呼び寄せてでも怪談を語ろうとするのでしょうか? 人間の本能の中には「生きよう」とする生存本能があることが知られていますが、その生存本能と対を成す自己破壊本能があるのです。この自己破壊本能をギリシア神話の神に準えて「タナトス」といいます。タナトスの働きは、人間に命の危険が伴うスリルへの欲求を生み出すのです。このタナトスの働きが、怪談を語る時にも働いているのです。人間の身体は生命の危険や苦痛を感じると、恐怖をやわらげるために脳内物質が分泌されます。この脳内物質の力が怪談を語る原動力にもなっているのです。

怪談とは非日常の象徴

怪談を語ることは自己破壊本能の働きであると言いましたが、怪談を語ることにはまだ隠れた効能があるのです。かつて、民俗学者の柳田國男は「ハレとケ」という概念を提唱しました。ハレとは祭りなどの非日常、ケは日常であると定義されています。この日常を生きるための活力が枯れることを「ケガレ」と考え、ケガレを払うためにハレがあるとされています。怪談は非日常の存在を語ること、すなわちハレの物語です。つまり、怪談には日常をよりよく生きるための効能があったのです。

現代の怪談の姿

しかし、柳田國男が「現代はハレとケの境目がなくなってきた」と語ったように現代の怪談はハレの存在ではなくなっています。むしろ、禁忌との境界線自体も無くなりつつあるようです。例えば、度胸試しや雰囲気を楽しむためだけの廃墟めぐりや占いの一環としてのコックリさん、修学旅行などの学校行事で語られる怪談と、当たり前のように怪談の物語や現場に踏み入っていくようになっています。これは、前述の自己破壊本能の働きに関係があります。スリルを感じる刺激が過多になりがちな現代では、より強いスリルを味わうためにはもはや怪談では力不足なのです。だからこそ、怪を求め境界線を踏み越えてしまうのです。

怪談が語り継がれる意味とは

昔の怪談には因果応報が含まれたものが多く見受けられます。有名な「四谷怪談」も、最後には伊右衛門は破滅していますし、「皿屋敷」でもお菊さんが主人の家を破滅させる下りがあります。すなわち、怪談には「悪事を行えば必ず報いを受ける」という原理を広めるためのシステムとしての役目があったのです。現代の怪談にも、因果応報が含まれたものが見受けられます。昔から語り継がれるものの全ては迷信ではなく、知恵の結晶であるということなのです。

怪談を世界に広めた小泉八雲

明治時代に、日本を訪れ日本人として生きた外国人がいます。その人こそが日本名「小泉八雲」、ラフカディオ・ハーンです。八雲は神が住む国といわれた出雲に居住し英語の教師として活動しただけでなく、日本に伝わる怪談を集め世界に紹介した功労者でもあります。八雲は日本の風土が持つ四季折々の様相と、日本の風習や文化を愛していました。八雲は日本人の奥さんや地元の人、教鞭をとって教えて回った各地から採取した物語をまとめ、「怪談」と題して文学として発表したのです。

小泉八雲の「怪談」とは

八雲が発表した作品には、日本の持つ情緒と異邦人である八雲が物語に触れて感じたことが盛り込まれています。物語を伝えた「語り部」と記録者の「小泉八雲」という二つの視点から怪談を語ることで、「怪談」が持つものを浮き立たせているのです。「怖い話」としての怪談ではなく、日本人の持つ魂がこもった物語としての怪談は、読む人に恐怖の中に清涼感を感じさせてくれるのです。

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